My Opinion 私の見解

わたしと小沢一郎

文藝春秋 『諸君!』12月号掲載
(平成20年11月1日発売)より

 昭和44年の第32回総選挙。初の立候補を決意した私は、当時自民党幹事長の田中角栄先生に挨拶に伺いました。
 そこで突然田中の親父さんに、「今日から選挙まで3万軒の家を歩け。すぐ名刺を3万枚刷れ。なくなるまで歩け。選挙区は日本の縮図だ。将来日本を動かす時に必ず役に立つ」と、あのだみ声で檄を飛ばされました。
 その教えの通り、来る日も来る日も一軒一軒歩き続け、お陰で最高点で初当選を果たすことが出来ました。

 このとき、小沢も田中の親父さんから同じことを言われ、私と同様一軒一軒歩き続け見事27歳で全国最年少当選を果たしました。

 後日談ですが、田中の親父さんがこの指示を下したのは、小沢と私だけでした。まったくの素人だった二人の事が、わが子のように心配で心配でたまらなかったようです。「3万軒の戸別訪問」という初陣の実践こそが、今日の「選挙の小沢」たる原点であると思います。

 この当選から数日後、田中の親父さんから呼び出されました。事務所に伺うとそこに学生のような青年がおり、一緒に部屋に通されました。これが私と小沢との初めての出会いでした。

 ふたりを前に、同期で当選した一人一人の解説から始まりました。「梶山静六は40歳で全国最年少の県会議長。渡部恒三、奥田敬和は県会議員。林義郎は通産省の課長…等々。しかしお前たち二人は、羽田はサラリーマン。小沢は大学院の学生だ。政治も行政もズブの素人だ。他の同期生と一緒になって凡々と過ごしていたら将来はない。命がけで勉強しろ。遊びはいつでも出来る。党の部会、国会の委員会に時間がある限り出て勉強しろ。まず基礎を固めろ。必ず将来大きな財産になる」と、とうとうと捲くし立てられました。

 お互い政治に関してはド素人、しかも二世議員。すぐに意気投合しその日はじめて酒を酌み交わしました。
 そして次の日から田中の親父さんの教えの通り、ふたりの部会・委員会まわりが始まりました。

 若い頃は何処に行くにも一緒で、同僚からは「まるで双子の兄弟」とまで言われたものでした。やはりここにも今日のふたりの原点があったかと思います。

 それからお互い当選を重ねていくうちに、党や院、派閥の主要ポストや閣僚等を歴任していくと、若い頃のように頻繁に会うことはなかなか難しく多少の距離感が生まれたこともありました。
 記者さんの言葉を借りると、お互い同期の中で徐々に頭角をあらわし、まわりがふたりをライバル視して何となく溝が作られていったらしいです。

 小沢が党の幹事長に就任。私が党の選挙制度調査会長を引き受け、久しぶりに小沢とのタックが始まりました。
 「政治改革・政権交代可能な二大政党の実現・小選挙区制の導入」ふたりは一体となって突き進み、紆余曲折を経てついには、「自民党には自浄作用がない。もはや自民党では改革は出来ない。ならば、改革に燃える同士とともに、自民党に対峙するもうひとつの勢力を創ろう」と、自民党離党という厳しい波乱の道へと進んでいきました。
 そして苦節15年。この時のふたりの信念と志が、その実現に向け今大きく動き出そうとしています。

 「お互い全然会わなくても、考えていることはいつも一緒だな」ふたりが会うと決まってこんな会話をします。
 自民党離党以降、さまざまな新党が立ち上がり、幾つもの再編が繰り返されました。そんな中、事実小沢との対決もありました。しかしそのほとんどは、週刊誌的マスコミ報道と互いの取り巻き議員の対決や憎しみでした。
 渦中のふたりには、およそ憎しみもいざかいもありませんでした。

 私は大衆の中に飛び込み、語り合うのが大好きな人間です。小沢はシャイで、あまり表に出たがらず、また言い訳も嫌いでそれが誤解を生むこともあります。
 しかし、私以上に一途な純な男です。

 小沢と私の心は一つです。
 いよいよ「政権交代」一大決戦を迎えます。
 小沢も私も、この歴史的使命にたとえ一命を賭しても、志に立ち向かうことこそ我が天命と、今魂の鼓動に身が震える思いでおります。

羽田 孜
敬称略